涙
ちょっとやそっとのことは気にせず眠れる性質だが、昨日は急患が運ばれて暴れて騒ぎになってたからなんとなく寝そびれて、
おかげですっかり日の高くなった今頃になって眠くて仕方ない。
そんな患者が多いのか、今日の病室は非常に静かでのんびりした空気に包まれている。俺もつい、うとうとと眠りの中に引き込まれた。
気配を感じた。
何者かの。
一気に目が覚めて飛び起きた。
「うわー!」
「あ…」
俺が見たのは、大声を上げて隣のベッドの向こうまで後退る大きな目だ。怯えている。
俺と目が合うと慌てて周りを見回して「大声出してすみません、すみません」と頭を下げながら
俺のベッドの脇まで近寄ってきた。
「ザンキさん〜」
恨みがましそうに声を潜める。
「悪い」
「私を何だと思ったんですか」
別に邪気を感じたわけじゃない。
こっちが無防備だったから、無意識に少し鬼の気を出してしまった。
それを感じ取ったこの少女は相当鋭い。
「反射神経いいな」
一瞬のうちに3メートル近くも逃げたのはたいしたものだ。
「何、褒めてるんですか」
日菜佳はゴシゴシと目を擦ると、改めて頭を下げた。
「お休みのところ起こしてしまってすみません」
「いや。もう起きたほうがいいんだ」
「戸田山なら来てないぞ」
「戸田山君なら、今日はたちばなにいます。ザンキさんが来るなって言うからここには来れませんよ」
戸田山がいればいろいろと暇つぶしになる。じゃなくて助かるが、入院生活も長くなりそうだから、
その間あいつに無駄に時間を過ごさせるわけにもいかない。
「毎日トレーニングしてるし、過去の闘いの映像見たり文献を読んだりして勉強してるし、真面目なもんです」
そう言って強く頷く日菜佳が、ザンキさんのいない間私が戸田山君をしっかり監督しておきます、と胸を叩いたのは10日ほど前のことだ。
「日菜佳ちゃんのおかげで助かるよ」
いえいえいえいえ、と首を横に振った日菜佳は、今度は眉を顰めた。
「それがですね。ちょっと困ったことがあるんですよ」
表情がクルクル動く。
「ちょっと出るか」
話が長くなりそうなので、松葉杖を取り立ち上がった。
談話室と名付けられた場所では、何組かの見舞い客と患者が話をしており、俺たちもその一角の長椅子に腰掛けた。
日菜佳は、ここ眺めがいいですね、なんて言いながら窓の外を見ていたが、やがて神妙な顔をしてこっちを見た。
「この間のバケガニの映像を何度も見てるんです」
「俺がやられた時の方のか」
俺が逃がしたバケガニは、その後ヒビキが倒してくれている。
「はい。それを何度も見てると、自分の悪かったところがわかってくるみたいで、もっとこうすればよかった、
ザンキさんも怪我しなかったのにって
凹んでるんですよ」
「そりゃ後で見ればああすりゃよかったこうすりゃよかったって思うもんだ。客観的に見て反省するのは悪いことじゃない」
「それはそうなんですけど」
日菜佳は視線を逸らして言い淀んだが、目を上げた。
「あの、ザンキさん、まさか引退なんて考えてませんよね」
思いがけないことを言われて、まじまじと日菜佳の顔を見た。
「す、すみません。変なこと言って。そんなこと私なんかが口出すことじゃないんですけど」
「戸田山が何か言ってたのか」
「いいえ、言いませんよ。戸田山君はそんなこと想像すらしてませんよ」
「じゃあ、おやっさんか」
「いいえ、父上も言ってません。ただ私が……」
言葉に詰まった日菜佳の目を覗き込んだ。
「日菜佳ちゃんがあの映像を見て俺はもう駄目そうだと思ったのか」
からかうようにそう言ってやると、日菜佳はふるふると首を横に振った。
「そんな。そうじゃありません。私はただ怖くて。ザンキさんの闘ってる映像は何度も見ましたけどやられてるのは見たことないし。
昔怪我したところですよね。昔怪我したところをやられたから持ちこたえられなかったわけで、そうじゃなかったら
こんな重傷なんてあるわけないじゃないですか」
ああ、やはりこの子は鋭い。
少し前までは、姉の後ろに隠れてただニコニコしてるだけの小さな子どもだと思ってたのに、いつの間にかあの事務局長の下で
資料の分析をするようになり、頼りになる猛士に育った。
勉強家でいろんな映像やら資料を見ている上に勘もいいから、同じ映像を見てても戸田山が気づかないところまで気づくんだろう。
まいったな。
「あれが原因で引退するなら、もうとっくにしてる」
「はい」
「復帰する気があるからリハビリだってやってる」
「はい」
「戸田山が自分の力が足りなくて俺が引退したんじゃないかとか、そんなことで思い悩んだりするようなことにはしないから」
実際は逆だ。あの時は戸田山に助けられている。1人だったら今頃どうなっていたかわからない。
「心配しなくていい」
「はい」
大きな目から涙が零れ落ちそうになっている。
この子にはわかってしまったのだ。わかってしまえばそりゃ恐ろしくもなるだろう。
俺には限界がある。
戸田山には可能性がある。戸田山自身はまだ全然自分の持つ力を把握していない。
自分の力を知らない鬼は引き際を知らない。力のままにどこまでも突き進んで気づいたときには引き返せないところまで来ている。
俺は自分の限界はわかってるつもりだった。それなのに気がつけば蟹の鋏に挟まれて死にそうになった。
わかっていても危ない目に合う。鬼になるというのはそういうことだ。
「泣くなよ」
「はい」
頷いた途端に今まで大きな目の淵で留まっていた涙が零れた。
「これから先も戸田山と付き合ってく気なら、先に不安になったりしないでくれ。
まだあいつもいろんなことに影響されやすいんだ」
「はい」
「だから今日のように俺のところにきてくれたのはよかった。俺なら日菜佳ちゃんにいくら泣かれても影響されない」
「ああ、もう、やだ! ほんと、すみません」
頭を下げて、ゴシゴシと目を擦った。
「化粧が取れてるんじゃないのか」
「えー! そんな。ちょっとすみません」
慌てて、バッグの中から鏡を取り出して背中を向ける。
猛士の女と付き合うってのがどういうことなのか、俺には経験がなくてよくわからない。
自分のやっていることを時に自分以上によく知っている猛士の女は、時に非常に頼りになるだろう。そして時に非常に厄介だ。
「おかしなこと言っちゃってすみません。あの、お詫びというわけでもないんですが、
ザンキさんは困ってることはないんですか」
振り返った日菜佳はいつもの明るい表情に戻っている。
「必要なものがあれば私、買ってきますけど。洗濯なんかは?」
「いや、ここの売店にはなんでもあるからそれで足りてるし。洗濯もコインランドリーが使えるから大丈夫だ」
「そうですかあ」
日菜佳はちょっとの間考え込む。
「特に困ってることはないから。気持ちだけで…」
「そうだ!」
目が突然輝いた。
「髪を洗って差し上げます」
「あ?」
「まだお風呂入れないでしょう。エレベーターの奥に洗髪用の洗面台ありましたよね」
「いや、髪も自分で洗えるからいいって」
「ええ、だけど人に洗ってもらったほうが絶対楽ですよ。私、結構上手いんです。今洗面台使っていいかどうか聞いてきます」
「いや、本当にいいから」
「照れてるんですか」
「馬鹿。照れるか」
「ふ、ふ、ふ。少々お待ちくださいませね」
「おい!」
素早い……。
あっと言う間に聞きに行ってしまった。
取り残された俺は仕方なく、眺めのいい窓の外でも見るしかない。
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