A HOME
僕にはいま何もできることがありません。
朝の日差しが入ってくる部屋はいつもとまるで変わってないように見えるけれど、ただ一ついつもと違うのは、 ここにアヤセさんがが倒れていることです。
僕はアヤセさんの胸に自分の耳を近づけて心臓がちゃんと動いていることを確かめて少しほっとします。
アヤセさんはさっきまでのあの酷い苦しみようが嘘のように穏やかな顔で目を瞑っていますが、白い肌はいつもよりいっそう青白く、 心なしか頬もこけているように見えます。僕はその額に光っている汗をタオルで拭って、ときおり胸に耳をあてて心臓の鼓動を聞きます。 あとはただ、横たわって意識のないアヤセさんのそばにいて救急車が来るのを待つだけです。
僕にはいま他にできることはありません。
もう半年近くアヤセさんと一緒に暮らしていますが、この部屋でふたりだけで救急車を待つのは初めてのことです。 僕はアヤセさんの大きな発作に遭遇したのはこれでまだ3回目にすぎないんです。
1回目は20世紀。竜也さんに病気のことを初めて聞して驚いたあの時です。
2回目は31世紀に帰ってきてすぐでした。僕はその時、これからは自分がアヤセさんと一緒に暮らそうと決めました。
一緒に住もうという提案は、あっけなくアヤセさんに断られました。
それでも僕は諦めずに粘って、アヤセさんは拒否して。
そんなやりとりに結論が出る前にアヤセさんがまた倒れて、僕とユウリさんとドモンさんは知らせを聞いて病院に駆けつけました。
病院に来てはみたものの僕たちにはできることもなく、ただ無事だと聞いてとりあえず安心して待合室の椅子に座っていただけです。
「どうしてアヤセが共同生活することに反対するか、シオンには本当にわかってる?」
ユウリさんが小さい子どもに話すような優しい口調で言いました。
「アヤセの病気は、今後悪くなることはあっても良くなることはあまり望めない。 きょうみたいに発作が起こる回数はこれから先ずっと増えてくると思う。だけど私たちには何もできない。 それを見ていることしかできないの。最悪の結果が訪れても、アヤセを助けるために何かしてあげることはできないの」
ユウリさんはあえて穏やかに静かに話すように努めているように見えました。
「おまえ、そこまで言うかよ」
ドモンさんが口を挟んだけれど、いつものような元気のある声ではありません。
「これは最初にはっきりわかっておいたほうがいいの。一緒に暮らしてただ心配するしかできないのは辛いよ。 そしてアヤセも、辛い気持ちでいるシオンを見るのはたぶんとても辛いの」
ユウリさんの言いたいことはわかる気がして、僕は黙って頷きました。
「アヤセは、たぶんシオンや私たちを残して死んでしまう。その時一緒に住んでなくてもすごく辛いと思う。 だけど、それまで一緒に住んでたら、一緒に住んでた人がいなくなったら、もっとずっと辛いよ」
ユウリさんのご両親と妹さんはユウリさんがまだ小さい頃に突然殺されたんだった、ということをこの時思い出しました。 その時の苦しさを思い出して僕のことを心配していたのかもしれません。
「辛い顔なんて絶対にしません。心配するのは僕だけじゃありませんから。 一緒に住まなくてもユウリさんもドモンさんもいるから僕は大丈夫です。それに、もし本当に死んでしまうんだったら…」
死ぬなんて言葉を使うのは嫌だったけれど、あえてその言葉を避けずに話したかったんです。
「一緒にいる時間が短いなら、一緒に暮らしたほうがよけい長く一緒にいられます」
僕は、ユウリさんとドモンさんに見つめられました。
ユウリさんは暫く何も言わずにそのまま僕の顔をじっと見ていて、その目は優しそうでもあったけれどなんだか悲しそうにも見えました。
「…そうね。シオンなら大丈夫かもしれない。シオンなら、アヤセの力になれるかもしれない」
ユウリさんが頷きました。
「わかった。それなら私がアヤセを説得する」
それを聞いて凄く嬉しかったんです。
「ほんとですか。お願いします。ユウリさんの説得ならきっと聞いてくれますから」
ユウリさんは苦笑いして、
「それはわからないけど。だけど、シオン」
もう一度僕をじっと見つめます。
「辛いことがあったら私たちに絶対言ってね。一人で抱え込まないでね。それは約束して」
「はい。約束します」
よかった。僕は心から安心しました。
そして予想どおりユウリさんの説得にアヤセさんもついに折れて、僕たちは共同生活を始めたんです。
救急車が着いて、救急隊員が2人部屋に入って来ました。
オシリス患者が発作を起こした場合に自動的に救急車が来るように心臓にチップを入れるというやり方には賛否両論あり入れるのも入れないのも本人の意思に任されていますが、 アヤセさんは入れています。アヤセさんが何もしなくても、僕が何もしなくても、救急車は来ることになっています。
救急隊員といってもこういう場合に来るのは人ではなくロボットです。 タックのようにちゃんと話のできるロボットではなくもっと簡単なロボットなのでそばにいる僕と特に話すこともなく、 アヤセさんの現在の状態と、本人であることだけを確認して、アヤセさんを担架に乗せました。あとは自動的に病院に搬送するだけです。
僕は部屋を出て行く担架を追って外へ出ました。救急車が待っています。20世紀のように誰かが付き添うということはできません。 すばやく担架を収納すると、あっという間に動き出しました。 救急車は優先的に空を飛ぶことを許可されているので、少しだけ地上を走るとすぐに空へ向かいました。
あっという間に空を飛んで行ってしまった救急車を見送った後、部屋に戻りました。
さっきまでの一連の出来事が嘘のように静かです。それほど広くもない部屋が妙に広々と見えます。
コーヒーのポットが床に転がって、コーヒーが全部こぼれています。 発作が起きたときにアヤセさんは手にポットを持っていて、それをテーブルに置こうとしたのですが、 ちゃんと置けずに結局床に落ちたんです。
僕はポットを拾い上げてテーブルの上に置き、床に流れたコーヒーを雑巾で拭き取りました。
アヤセさんはもう今ごろ病院に着いているでしょう。病院に着いたからといって根本的な治療をするわけではないんです。 発作で消耗した体力を回復させるために入院するんです。
僕はコーヒーで汚れた雑巾を丁寧に洗いました。
いまは他に何もできることはありません。
僕が勤務している時間保護局の研究所にドモンさんが来たのは午後になってからでした。
「あ、ごめんなさい!」
ドモンさんの顔を見るなり思い出しました。 アヤセさんに何かあったらドモンさんとユウリさんには教えることになっていたのに、すっかり忘れていました。
「いや、いいよ。ユウリには俺が教えといたから」
ドモンさんはアヤセさんと同じ時間保護局勤務なので、現場に出ていないときであれば僕が教える間でもなく情報は伝わるんです。
「おまえ、一緒だったんだって。大変だったな」
ドモンさんの言葉に僕は首を横に振ります。
「全然大変じゃありませんでした。僕はただそこにいただけで何もしてませんから」
本当に僕は何もしていません。
20世紀に、トゥモローリサーチの仕事で入院している人の付き添いをしたことがあります。 付き添いといっても必要なものを持っていき買い物や小さな用事を代行する、といった程度のことでしたが、 それでもその程度のことでも病院にいてはなかなかできないので、病気になってしまうと本人も周りも大変そうでした。
それに比べると31世紀は楽なんだと思います。病気の人はは身一つで病院に行けばいいんです。 入院中はすべての義務を免除されるので雑事は退院してからすればよいことになっています。 もっともこの恩恵を悪用しようとする悪い人たちがいるのも事実です。
31世紀のほうが便利だとは思いますが、病気の人のために何もしてあげられないのは淋しい気もするんです。 それは病気の人のためというより周りの自己満足なのかもしれませんけど。
「でも、おまえがいてよかったよ」
「そうですか?」
「そうだよ。想像してみろよ。あいつが誰もいない部屋で床の上に一人で倒れてるなんてよ、たまんねえよ」
ドモンさんは本当にたまらない、といった顔をしました。
「おまえが一緒にいてほんとによかったよ」
そう言われると、よかったのかもしれない、という気が少ししてきます。
「俺、今夜からまた出張するんだけどさ」
ドモンさんの言う出張とは時間移動のことです。ドモンさんは優秀なレンジャー隊員として忙しい身なんです。
「おまえ、家に泊まりにくるか」
「え?」
「俺はいないけど、シオンなら、うちの家族はみんな知ってるし」
ドモンさんの家は大家族です。僕も何度か遊びに行ったことがありますが、いつも皆さん歓迎してくれます。 誰が突然泊まりに来ても大丈夫、という感じです。
「嫌じゃねえか?ひとりであの家へ帰るの」
ドモンのこういう優しさが嬉しくて、なんだか自然に笑顔になってしまいます。
「楽しそうですね。でも、今仕事がけっこう忙しくて家に持ち帰らなくちゃならないかもしれないし。 やっぱりきょうはやめておきます」
「そうか?まあ、きょうじゃなくても来たくなったらいつでも来いよ。ちゃんと言っとくからさ」
「はい、ありがとうございます」
仕事が忙しいのは事実ですが、夕方になってから少しだけ研究所を抜け出して病院へ行くことにしました。 昼頃ドモンさんが覗いたときには、まだ眠っていて会えなかったということでしたが今はどうでしょう。
アヤセさんがもう何回入院しているのか、すぐには思い出せません。最初のうちは数えていましたけど。
発作によって体力が落ちるので、それをもとに戻すためにアヤセさんは入院していないときにはかなり激しいトレーニングをしています。 ユウリさんやドモンさんには隠しているわけではありませんが、心配されそうな気がするので言っていません。 聞かれたら言えばいいですよね。
一緒に暮らし初めた時、アヤセさんが退院した次の日であるにもかかわらず、走ってくる、って言ったので驚きました。 それなら僕も一緒に走ります、と言うとアヤセさんは笑いました。
「今の俺が、おまえについて行けるわけないだろ」
そう言って僕の肩をたたいて、
「心配しなくて大丈夫だから。ひとりで行かせてくれ」
と、ひとりで走りに行ってしまいました。
ひとり残されてようやく気づきました。僕はあの時アヤセさんに辛い顔を見せてしまったんです。
辛い顔はしないとユウリさんに約束したのに破ってしまったんです。
アヤセさんが僕について行けない、と言ったのがショックでした。 考えれば退院したばかりなのだからあたりまえの話なのですが、そんなことを思ったこともありませんでした。 アヤセさんはいつも僕の前を行く人でした。今はそうではない、ということを初めて実感しました。
この時辛い顔を見せてしまったことは忘れられません。
この日から毎日アヤセさんがトレーニングに行くのを、僕は笑顔で送り出すようにしてきました。
こんなにトレーニングして大丈夫なのかな、と思って調べてみましたが疲れすぎない程度ならいいみたいです。 疲れすぎない状態というのがどういうものなのかわからなくてアヤセさん本人に聞いてみると、 アヤセさんは「それは俺がわかってる」と言ったので、その言葉を信じています。
明らかにやりすぎて疲れすぎているんじゃないかな、と思える日もあるんですが、できるだけ何も言わないようにしています。 それはアヤセさん自身がわかっていることですよね。
実際、少しずつ元気を取り戻していくアヤセさんを見ているのは嬉しいので無理して笑顔を作って送り出しているわけではないんです。 本当の気持ちです。
だけど、そんなアヤセさんの努力も一度発作が起こることで水の泡となってしまいます。そうなるとまた一からやり直しです。 また毎日少しずつトレーニング量を増やして、一度の発作で落ちてしまった体力を徐々に取り戻していくしかないんです。 僕はそれをただ見ているだけです。
何度も何度も繰り返してきました。
アヤセさんは何度も一からやり直し、僕は何度もそれを見てきました。
きょうもまた、ふりだしに戻ってしまいました。
病室のセキュリティは厳重ですが、僕はあらかじめ網膜登録しているのでアヤセさんの状態さえ悪くなければ入れてもらえるはずです。
会えるかどうか少し心配でしたが、何も問題はないらしく看護ロボットに遮られることもなくすんなり病室へ入れました。
アヤセさんはいつもと同じようにいくつもの機械に身体を繋がれて目を瞑っていましたが、人の入る気配を感じたのか、 ゆっくり目を開けました。
僕と目が合うと静かに微笑みました。その笑顔を見ると僕は急に安心して嬉しくてたまらなくなり、 アヤセさんの脇に椅子を寄せて腰掛けました。
何も喋らなくてもいいような気分になってそのままアヤセさんの顔を見ていましたが、しばらくしてアヤセさんが口を開きました。
「…コーヒー、ぶちまけちまったな」
声が少し掠れています。
「それならちゃんと片づけておきました」
僕はちょっと自慢げに答えちゃいました。
「そうか。悪かったな」
アヤセさんは声は小さいけれど穏やかな表情をしていて、顔色も今朝に比べればずっとよくなっています。
「アヤセさんが帰ってくるのが遅かったらどんどん散らかっちゃいますよ」
「俺が帰るまでには片づけといてくれ」
ここは家ではなくて病院なのに、いつも家で話してるのと同じです。
「はい。ちゃんと毎日片づけます」
こうやって話しているのはとっても嬉しいけれど、あまり話しているとアヤセさんが疲れちゃうかもしれません。
「それじゃ、僕もう帰ります」
僕が腰を上げると、アヤセさんは、ああ、と頷きました。そして
「すぐ帰るから」
と言いました。
病室を出てしばらく歩いたところでユウリさんから電話がかかってきました。 まだ仕事の途中みたいで、きょうは病院には行けそうにないって言うので、僕が様子を伝えました。
「シオン、大丈夫?」
「え?」
「家に来る?って言いたいところだけど、きょうは私も何時になるか見当つかないし」
ドモンさんと同じことを言うのでなんだかおかしくなっちゃいます。
「そんなこと言っちゃだめですよ」
ちょっとからかってみたくなっちゃいました。
「ユウリさんも女の子なんですから、そんなこと言っちゃだめです。誤解されちゃいますよ」
ユウリさんは一瞬、何のことかわからない、といった感じで黙っていましたが、すぐに大きな声になりました。
「ちょっと、シオン、あなた何言ってるのよ!」
そして慌てて小声に戻ります。
「まったく、この子はおとなをからかって」
ユウリさんはおとなっぽいんですけど、すぐにムキになるのがおもしろいんです。
「へへへ、ごめんなさい」
20世紀にいた頃、竜也さんはずっとアヤセさんの病気のことをひとりだけ知ってたんですよね。 それって辛かっただろうなあ、って思うんです。僕も全然気づかなくて力になれませんでした。
今の僕は全然違います。ユウリさんもドモンさんもいます。アヤセさんのことを心配しているのは僕ひとりじゃありません。 だから辛くありません。
「僕なら大丈夫です。あの部屋が僕の家ですから、あそこでアヤセさんが帰って来るのを待ちます」
僕はそう言いました。
「そうか」
ユウリさんは電話の向こうで静かに答えました。
すぐ帰るって、さっきアヤセさんは言ったんですから、毎日あの部屋に帰ってアヤセさんの帰りを待つことがいまの僕にできることです。
僕が待っていた1本の電話があったのはその夜の遅くのことでした。
「シオンさんはハバード星人だったんですね」
電話の向こうの人はそう言いました。
「だから我々地球人には思いつかないことを考えることができるんですね」
そうなんでしょうか。僕がハバード星人だということが役に立ったんでしょうか。 だけど僕はこの人たちに一度も自分がハバード星人だなんて言ったことがないのに、どうして知っているんでしょう。
よくわかりませんけど、この電話は僕が待っていた電話だったことは事実です。一歩前進したって思っていいんですよね。