Good news

 

さっきからカタカタと音がしていた。
耳障りだ。何の音だ。
周りを見渡そうとして、自分の靴の金具が机の脚に当たる音だと気づいた。 いつの間にか貧乏ゆすりを繰り返していたのだ。それに気づいたらよりいっそうイライラした。

俺が何をしたって言うんだ。飲みに行った店で突然始まった喧嘩を止めようとしただけだ。 他人の喧嘩なんて知ったことじゃないが、こっちが静かに飲んでるのに騒々しいから注意したのだ。
それなのに俺まで一緒に連行された。
俺が関係ないことは周りにいた連中に聞けばすぐに明らかになるのに、もう何時間も警察のこんな狭い部屋で待たされている。
あの時逃げる機会がなかったわけではない。逃げることでかえって怪しまれるのを避けたつもりだった。
圧縮冷凍の刑を終えてやっとカーレースの世界に復帰できたのだ。もうレーサーの資格を失いたくなかった。
そのために俺が抑えに抑えてこんなに我慢してやってるというのに。結局はこんな扱いなのだ。
待たされていることも苛立たしいが、狭い部屋に入れられていることも苛立たしい。 事故を起こして捕まって服役してた時の、あの狭い場所に閉じ込められていた時の記憶がわずかに甦る。
もう我慢できない。もう限界だ。

バロンは椅子から立ち上がった。 勢いで椅子が後ろに倒れた。
その途端ドアが開いて1人の女性が入ってきた。

女性は一瞬倒れた椅子に目をやった後、バロンの顔を真正面から見た。
「今日はご足労いただきありがとうございました。もう帰っていただいて結構です」
「最初から俺は関係ないって言ってるのに」
バロンは無表情の女性の顔を見ながらゆっくりと椅子を元通りに起こした。
「こんなに長く足止めされたのはあれか?俺に前科があるからか」
「そういうわけではありません」
そう答えた女性の口調にはまったく感情が感じられない。 だが、その口調にほんのわずかに何かが引っ掛かった。 聞いた覚えのないその声になぜか懐かしさを覚える。
「あんた前に会ったことあるか?」

つい聞いてしまった。
これはナンパの常套句だ。これまでにも何度も口にしたし、帰ってくる言葉もだいたい想像できる。
だけど彼女は無表情な口元を和らげて
「ありますよ」
そう答えたのだ。
「20世紀で」
「え……?」
「タイムレンジャーでしたから」
タイムレンジャー。 それが何なのか把握するまでに幾らかの時間を要した。
タイムレンジャー
「そうか。あの時の」
やっとわかった。タイムレンジャーというのが何なのか。
「だから顔は覚えてないんだな。美人なのに」
あの時彼らはタイムレンジャー用のスーツを着用していた。バロンの前に素顔を晒してたのはアヤセだけだった。
「驚いたな」
こんな場所でタイムレンジャーに再会することになるとは。

「それならあんた、あいつも戻ってきてるのか」
かつて味わった屈辱のせいで警察官にいい印象は持っていない。 この女だってさっき入って来た時は、感じの悪いきつそうな女に見えた。 だがこの女は自らタイムレンジャーだったと名乗った。
「あいつというのは」
「アヤセだよ」
「戻ってるわ」
戻ったというのはどんなふうに戻ったのか。その 表情からは何も読み取れなかった。
「変な病気に罹ったというのは本当なのか」

圧縮冷凍の刑から解放されてこの世に舞い戻った時、アヤセの姿はレースの世界から消えていた。 アヤセの名前を覚えてる奴すら殆どいなかった。
バロンには到底信じられないことだった。あいつがレースをやめるなんて有り得ない。
だがよく考えれば、20世紀でアヤセに会ったのは非常に不自然ことだった。 30世紀でカーレーサーになってるはずのアヤセが、タイムレンジャーなんかになって20世紀に来ていたのは何故なんだ。
アヤセがもう助からない病気に罹ってプロのレーサーになれなかったという噂は聞いた。 だがその噂が本当ならば、タイムレンジャーなんていう過酷そうな仕事だってやれるわけはない。

「ええ」
彼女は頷いた。
「だけど治療の効果があって。まだ完全に治療が終わったわけではないけど、今は元気に暮らしているわ」
あまりに彼女がすんなり答えたので、その言葉の意味がすぐには把握できなくてぼんやりと彼女の顔を眺めてしまった。
「オシリスなんとかっていう不治の病だ、ってのは嘘だったのか」
「オシリス症候群はかつては不治の病と言われたけど、今はそうではないのよ」
そう言って彼女は穏やかに微笑んだ。

綺麗な女だ。
唐突にそう思う。

「何か伝えることがあれば伝えておくけど」
「いや」
バロンは首を振った。
「つまりアヤセはなんだか面倒な病気になったけど今は生きてる、ってことなんだな」
「そうよ」
それならそのうちサーキットで会うだろう。
走ることを知ってしまったあいつが、走らずに生きていくなんてできるわけがない。 俺がおとなしく服役して、腹が立つことがあっても我慢したのは、再びサーキットに復帰したかったからだ。 アヤセだってきっと同じだ。
「俺はサーキットで待ってる」
そう口にしたら愉快な気分になって笑えてきた。
もしかしたらアヤセは生と死の堺を彷徨ってもうレースの世界に戻る気をなくしてるかもしれない。 そんな可能性だってないわけじゃない。 その時は会っても仕方ない。他の場所で生きているアヤセと俺が会ってもお互いに用はない。
だがあいつはきっとサーキットに帰ってくる。
バロンにはそれがはっきりわかる。
「生きてるなら、走るのをやめられるわけないんだ」


いつの間にかこの女性が無表情だとは思えなくなっていた。落ち着いた穏やかな表情をしているように思えた。
「こんなところに連れてこられて最悪だと思ったが、あんたに会えたのはよかったよ」
さんざん待たされた苛立たしさはいつの間にか消えていた。
「ご協力に感謝します」
彼女は小さく微笑んだ。
「じゃあな」
軽く手を上げながら部屋を出ると、バロンの後ろですぐにドアが閉まった。

「あ……」
その時気づいた。
彼女の名前を聞いていない。









 

 


 

 

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