君のハンカチ
あの時止血してもらったハンカチを借りっぱなしだ。
唐突に思い出した。 この香りのせいだ。
「シャンプーか」
思わず声に出してしまったので、女が顔を上げた。
「なに?」
「いや」
いい香りがする。
この女の背の高さでは、ちょうど頭が俺の顔の下にくるので、どうしても気になってしまう。
「どんなシャンプーを使ってるんだ」
「美容室で買ってるのだけど、香が残ってる?」
ロンダーズにVコマンダーを奪われて川に落ちた時、タイムピンクに命を救われた。あの時、こんな香りがした。
まさかな。
タイムピンクが美容室でわざわざシャンプーを買ってるとは思えない。あの貧乏所帯だからな。 あの野郎どもと同じ安くてでかいのを共有しているに違いない。
ってことは、浅見も同じシャンプーを使ってるということか。
「どうしたの?」
なんてことだ。
この女が本当に同じシャンプーを使っているかどうかはどうでもいい。問題は、この香りから俺が思い出すということだ。
「悪いな」
こんな連想をさせられる以上、ここにいても仕方ない。 絡められた腕をそっと振り解いた。
「気分じゃなくなった」
「どういうこと」
怪訝そうな声を聞きながら、俺は財布を取り出す。
「何が気に入らないのよ」
「あんたが気に入らないわけじゃない」
札を何枚か差し出すと、女は素直に受け取った。 まったく、無駄な金を使ったもんだ。
「そのシャンプーの匂いが気に入らないんだ」
「はあ?」
女は呆れた顔で溜息をつき、札をもったまま手を振った。
ハンカチの枚数が1枚足りない。今畳んだ洗濯物を捲ってみるが見つからない。
洗濯機の中に残っているのかしら。
洗濯機を覗きに行こうと部屋を出たら思い出した。この間滝沢直人の傷の手当てをした時に使ったので足りないのだ。
1枚見当たらなければすぐ気づいてしまうほどの数しかハンカチを持っていないのだけれど、滝沢の手当てに使った1枚が惜しい わけではない。
ただ、あの時、もう少し粘って説得するべきだったのかもしれない。
そう思うとちょっと悔やまれる。
これまで私が見てきた滝沢直人は、仕事ができる人ではあるけれども、挑戦的で挑発的で、私たちと協調しようなんて気はさらさら ない人だった。
だけど、あの時の彼は率直だった。 本来そんなにかたくな人ではないのかもしれない。
「ユウリ」
仕事から帰ってきたばかりらしい竜也が駆け寄って来た。
「これ、またもらっちゃったから使ってよ」
「ありがとう」
先日美容院の模様替えの手伝いに行った竜也は、シャンプーの試供品をもらってきた。 美容院で使っているシャンプーというものは、私たちがふだん買っているものとは違って値段も随分高いらしい。 シャンプーの違いなんて私には全然わからないのだけど、少しでもシャンプー代が浮くのなら有難いので使わせてもらった。
「あの美容院の仕事も今日で全部終わっちゃったから、このシャンプーはもうもらえないな」
竜也は残念そうな声を出した。
「おまえな、シャンプーなんて腹の足しにならないものもらってくるんじゃなくて、もう少しましなものもらってこいよ」
「贅沢言うなよ。美容院なんだから食い物なんてあるわけないじゃん」
普段の竜也を見ていると、浅見グループの御曹司だなんて言われてもピンとこない。
だいたい竜也には浅見グループに戻る気がないのだから、 滝沢直人も竜也の存在を気にせず協力してくれたっていいのではないか。
そう思うのだけど、滝沢と私たちとでは目的が違う。 私たちの目的はロンダーズの逮捕だけど、滝沢にとってロンダーズの逮捕は手段に過ぎない。 出世してのし上って行く事が彼の目的なのだ。
目的が違うのだから全面的に協力し合えないのは仕方ないのかもしれない。
「病院まで送るから、早く乗れ」
アヤセと竜也が救急車で行ってしまったのを呆然と見送っていた私は、滝沢直人の声で我に返った。
私だけでなく、ドモンもシオンもきっと少し驚いた顔をしたのだろう。
「あんた達を送ってからこのケースを届けるから」
そう促すと、滝沢はさっさと運転席のドアを開けた。
ドモンとシオンが素早く後ろの座席に乗り込み、助手席へ乗ろうとした私は初めて自分が雨に濡れてびっしょりなことに 気づいた。 一瞬躊躇したけれど、びしょびしょの身体のまま助手席に座る。
「ごめんなさい」
滝沢がちらっと私に目をやる。
「車の中が濡れてしまう」
「そんなこと、気にするな」
滝沢の声がいつもと違って優し気に聞こえるので、弱気になっているのだと自覚する。
車の中は暖かかったけれど、なんだか震えが止まらない。
倒れたアヤセはまったく動かなかった。遠い昔おとうさんとおかあさんとメイが撃たれて動かなくなった時の記憶が甦る。
あのままアヤセが動かなかったら、と思うと怖くなる。
怖がる必要はない。あの時とは違う。 アヤセの脈を確かめたのは私だ。 アヤセは死んではいない。 だから大丈夫だ。 まだ間に合う。 今後どうするべきか考えなければならない。
顔に落ちてくる水滴を拭くためにハンカチを出そうとポケットの中を探った。
見つからない。
そうだ。さっきアヤセかかる雨を拭おうとして取り出した。きっとあの時に落としたのだ。
そう思っていたら、横からハンカチを差し出された。
「あ、どうも。ありがとう」
タイミングの良さに驚きながら受け取る。
「これはあんたのだ。返しそびれてた」
渡されたハンカチを改めて見る。
確かにこれは私のハンカチだ。
きちんと折りたたんであり、アイロンがかかっている。
タイムピンクが隣で小さく震えている。
すっかり濡れた髪から、水滴が落ちている。
後ろの席に座ってるタイムイエローもタイムグリーンも雨に濡れてびっしょりだ。タオルでも積んでいれば貸してやるところだが、 生憎そんなものはない。
ふと気づいて、借りたままだったハンカチを返す。
ありがとう、と言う声がか細くて驚いた。 タイムピンクについてそう知っているわけではない。冷静なリーダーとしての姿しか見た事がなかった。 こんなに頼りなげな様子は見たことがない。
タイムブルーが倒れて、こいつらは今後どうするのだろうか。4人で闘うのか、他のメンバーを入れるのか。 少なからずシティガーディアンズの活動にも影響してくるだろう。
「ありがとう。ケースはよろしくお願い」
病院の前に車が着くと、3人が転がるように車から降りた。
「ああ」
一瞬いつものしっかりした表情に戻って俺が頷くのを確認したタイムピンクは、他の2人に続いて病院の玄関に走り込んだ。
タイムブルーの病状を確認する時間は俺にはない。血液を届けなければならない。
車を出そうとして、助手席の下に落ちているものに気づく。
「よほど慌ててたな」
屈んで、さっき返したつもりでいたハンカチを拾った。
返しそびれた。
久しぶりに書いたら、こんな話になってしまいました(汗)。
「狙われた力」を見て、この2人の話を書きたいとずっと思っていたのです。