ある雨の日

 

 病室の窓から見える空は暗く、大粒の雨が降っていた。
 20世紀にいたら、こんな天気の日は家の中にいてもずいぶん雨音がうるさかっただろう。 31世紀の病室は静かで快適な温度と湿度が常に保たれていているから、窓の外がどんな天気だろうとまったく影響がない。
 じっと外の雨を見ていたシオンは窓から離れ、眉間にわずかに皺を寄せて眠っているアヤセに目をやった。
 手術は無事成功しその後の投薬による治療もうまくいっているが、治療による体力の消耗は激しいらしく アヤセは眠っていることが多かった。
 とは言えその経過は順調と言えるし、これから後の長い治療にもアヤセは耐えられるに違いない。
 そう思っているから、まったく不安は感じなかった。 いろんな機械に取り囲まれているアヤセを見るとドモンはこっそり眉を顰めるけれど、シオンはそれを痛々しいと思うこともなかった。
 シオン自身もかつていろんな機械を取り付けられたまま眠っていた経験があるからかもしれない。
 ハバード星人であるシオンは1年に1度だけ睡眠期を迎える。 物心つく前から13歳まで、睡眠期の間中シオンには脳波計やら心電図計やらいろんな機械が取り付けられていた。 眠るということはそういうものなのだと思っていた。
 長い間自分の寝相が悪いことを知らなかった。 毎年寝る時身体中に取り付けていた機械がよく外れてしまわなかったものだ。 おそらく寝ている間中監視されていて、機械が外れる前に寝相を直されていたのだろう。
 13歳になって初めて機械から解放されて眠った時、目が覚めたらベッドから落ちそうになっていて驚いた。 自分は寝相が悪いのだと知った。自由とはベッドから落ちそうになることなのだと知った。
 アヤセは自分とは違う。生まれた時からずっと何にも繋がれずに眠っていた。
 そういう人にとって、今のようにいろんな機械に繋がれて眠るのは煩わしいことなのだろうか。

……ごめんね。鬱陶しいでしょう。
 睡眠期に入る前に数々の機械を取り付けながらそう言ってくれた人を思い出す。 ふっくらしていて丸い大きな目をしたその人は、シオンのお世話係の1人だった。
 お世話係というのは幼いシオンの世話をしてくれる役目の人で、数か月おきに代わる。 おそらく親しくなりすぎないように教育されていたのだろう。どの人も親切だったけれど、 どの人もどことなくよそよそしくかった。
 でも、その人は他の人とはちょっと違った。
 何が違ったんだろう。
 その人はよく頭を撫でてくれた。 よく抱きしめてくれた。 時々自分の息子の話をした。
……シオンちゃんより少し年上なの。
……サッカーをやっているのよ。
 シオンは会ったことのないその人の息子の話を聞くのが好きだった。 今思えば、本や映像でしか知らない友達とか兄弟とか、そういう存在に憧れていたのだと思う。 本や映像でしか知らないおかあさんというものの姿をその人に当てはめていたのかもしれない。
 話をするのが嬉しい。 抱きしめられるのが嬉しい。 一緒にいると嬉しい。
 睡眠期が終わって目が覚めたら、その人はいなくなっていた。
……おはよう。シオンちゃん。
 そう言って起こしてくれたのは、初めて見る新しいお世話係りの人だった。
 僕があの人に甘えすぎたせいだ。
 シオンはすぐに悟った。あの人を好きになりすぎたから、あの人はお世話係からはずされてしまったのだ。その後2度と会うことはなかった。

 そんな昔のことを思い出していると、ドアが開く音がした。
この病室に自由に出入りできるのは、病院の関係者以外はアヤセが許可した者だけで、 現在はシオンとユウリとドモンだけのはずである。
 だが、ゆっくり入ってきたのはユウリでもドモンでもなかった。
 入ってきた女の人はシオンと目が合うと小さく頭を下げた。
「あ……」
 それが誰なのか、聞かなくてもシオンにはわかった。
「アヤセさんの、おかあさん、ですね」
 その人は、はい、と頷いて、少しだけ微笑んだ。
 笑顔がアヤセにそっくりだった。






 雨が激しくなってきた。
 30世紀の車はどんな天候でも自動的に目的地まで行ってくれるから、アヤセのいる病院を行き先に指定した、 ユウリはぼんやりと窓の外の雨を見ている。
 20世紀でアヤセが倒れた日もこんな天気だった。 あの日雨の中で倒れていたアヤセはいくら呼びかけても目覚めなかった。
 眠っているアヤセを見るのは好きじゃない。
 いや、アヤセに限らない。眠っている人を見ると辛くなる。 眠っている人を見ると不安になる。この人は本当に目覚めるだろうか。 揺り起こして大丈夫だと確認したい衝動に駆られる。
 こんなふうに感じてしまうのは、昔の記憶のせいかもしれない。 おとうさんやおかあさんやメイは倒れ伏したまま目覚めなかった。 あの時の恐ろしさが心の中に刻み込まれている。
 アヤセを見舞うために病院に行っても、アヤセが眠っていると落ち着かなくて、すぐに帰ってきてしまう。 起こしてくれていい、とアヤセは言うけど、別に用事があるわけでもなく起こすほどのこともない。 ただ無事でいてくれるのがわかればいいだけだ。

 だいたい寝てる姿というのは人に見られたくないものじゃないだろうか。
自分なら嫌だ、とユウリは思う。
 だから、ついシオンにそう言ってしまった。
……寝てる時に近くにいられるのは嫌なものじゃないのかしら?
 シオンが、えっ!と驚いた顔をしたので
……まあ、私はそうだと言うだけで、アヤセがどうかはわからないけど。
 弁解するように付け加えた。
 シオンは他の人が眠っている時間常に起きている。寝てる時は近くにいるな、というのは酷い話だった。
 その後シオンがアヤセに聞きただして、シオンの好きにしていいよ、という返事をもらったと聞いてほっとした。
 アヤセが好きにしていい、と言ったのは、一緒に住んでるシオンに気を許してるから平気なのかもしれないし、 いつも起きているシオンの時間を考えてそう答えたのかもしれない。





 息子の寝顔を見るなんて、いったい何年ぶりだろう。
 屈託のない顔をして眠っていた幼い頃とは違い、眉間にわずかに皺を寄せている。 ずいぶん痩せた。痩せたというよりやつれている。もともと白い肌がよりいっそう白くなっている。
 さっきここにいた青年は、経過は順調ですよ、と言っていた。 気を利かせて出て行ってしまったあの青年のほうが私よりずっと今のアヤセを知っている。
 アヤセと実際に会ったのはもう2年も前のことなのだ。
……今度、レースに招待してやるよ。
 そう言って笑って帰った。あの時はもっと頬がふっくらしていた。皮膚に力があった。
 2年間会ってないとはいっても、チャットでは時々顔を見ていた。 それなのに、どうして気づかなかったのだろう。
 いや、気づいてはいたのだ。何かを隠していると。 時間保護局に入ったと聞いた時から、何かあったのだろうとは思っていたのだ。  カーレーサーとして行き詰っているのだろうかと思っていた。
 それだけじゃなかった。
 思えば幼い頃から自分についての悪いニュースは伝えなかった。 転んで怪我してるのを隠して化膿させたし、試験の点数が悪い時は成績表のデータを自分で書き換えて学校から呼び出しがきたし、 喧嘩して補導されて警察から連絡がきたこともあった。 レースで骨折した時は監督から連絡がきた。 よくないことはいつだって他人から聞かされた。きっと私が知らないこともいっぱいあるだろう。
 だから、今は最悪の状態ではないのだ。 最悪の状態なら、きっと自分からは何も言わないだろう。 少しはいい状態になったから、本当のことを言う気になったのだ。
 一番辛い時期は1人で耐える。こういう子にしてしまったのは私なのかもしれない。 アヤセの父親とはアヤセがまだ物心付かない時期に別れたから、今の夫と再婚するまでアヤセと私は2人だけで暮らした。 あの頃の私は気持ちに余裕がなかった。日々をこなしていくのに精いっぱいだった。息子を甘えさせる力もなかった。
 布団から手が出ているので握ってみる。
 息子の手を握るのも久しぶりだ。すっかり大人の男の手になっている。
 この手がもみじのように小さかった頃から車が好きで、カーレーサーに憧れていた。ずっとコツコツ頑張っていた。
 それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 鼻の奥が熱くなって涙を落としそうになるのを、ぐっと堪えた。
  





 病院の広いロビーの片隅に、シオンの栗色の頭が見えた。
 シオンは暇があればこの病院に来てアヤセの病室以外の場所もうろうろして他の入院患者と親しくなったりしてるらしいから、 どこにいても不思議ではない。
 俯いて腰掛けていて、近寄っても全然気づかない。
「シオン」
 声をかけると初めて顔を上げて満面の笑みを見せた。
「ユウリさん」
「アヤセのところには行ったの?」
「はい! 今、おかあさんが来て」
「え?」
 思わず問い返した。
「アヤセの?」
 はい、とシオンが頷く。
 アヤセの母親が来ている。  ということは、やっと自分の病気のことを伝えられたのか。
「そうか」
 よかった。
 手術が成功したことも、アヤセがそれを親に伝えられたことも、よかった。
 以前、治療法が見つかる前にアヤセから遺書めいたディスクを預かった。 そのことが気持ちのどこかにずっと引っ掛かっていた。今は治療がうまく行っているからあのディスクの使い道はない。
 だけどもしアヤセに何かあったら、私が彼の家族に伝えなければならない。
 そう思っていた。
 もうそんな必要はなくなったのだ。
「アヤセさんにおかあさん、いたんですね」
「いないと思ってた?」
 母親が来ているのであれば、このままアヤセの病室に行くわけにはいかない。 ユウリはシオンの隣りに腰掛けた。
「いえ、そうじゃないですけど。そんな話聞いたことがなかったから」
 確かに、アヤセは家族の話をしない。
「でも、すぐわかりました。アヤセさんにそっくりでしたから」
「へえ、そうなの」
「はい。きっとアヤセさんが女の人だったらああいう感じになるんでしょうね」
 アヤセにそっくりな女の人なんて想像できない。 だけど、親子というのはたぶんそういうものなんだろう。






「まったく、何も言わないんだから」
 目覚めた時に誰かいる気配がしたので、またシオンが来ているのかと思ったら母だった。
「言っただろ」
「おととい、やっとね」
 2年ぶりに会った母は、服装も髪型も体型も以前と変わらない。だが絶対に口に出しては言えないが、幾分老けたように見える。
「悪い状態に見えるかもしれないけど、経過はいいんだ」
 本当はもう少し見た目が回復してから伝えるつもりだった。 手術も成功して治療もうまくいってるが、体重は減る一方だし、こんなにいろんな機械に繋がれて動けない状態では まるで重病人のように見えるのはわかっていた。
 だけど一昨日偶然母から電話があって、寝巻き姿なのを訝しがられて、ついにすべて話すことにしたのだ。
 それにしても、まさかこんなにすぐにやってくるとは思わなかった。
「シオン君、だっけ。さっきここにいた子もそう言ってたわ」
 ああ、やっぱりシオンが来ていたのだ。 
「薬が強いからとうぶんはいろいろあるけど。今が底だから。これからはよくなる一方だ」
「そう」
 母は素っ気なく頷いて目を逸らした。 泣くのを堪えてる時の表情だ。
 小さい頃はこんな表情を時々見てた。めったに泣かない人だが、泣くのを堪えていることはよくあった。そういう時はすぐわかった。 顔だけじゃなくて考え方も感じ方もよく似ているから、 2人だけで暮らしていた頃は母の思っていることがわかりすぎて息が詰まった。
 母が今の父と再婚して、すぐに妹たちが生まれたから急に家族が増えて大騒ぎになって、 いつの間にか母のこんな表情を見る機会はなくなった。 俺と母の間にも距離ができて、俺はカーレースに本気で取り込むようになって1人で暮らすようになった。
 こんな表情を見るのは久しぶりだ。
「みんな、どうしてる」
「みんな元気よ。今日ここに来ることはお父さんにしか言ってないけど。彼もアヤセに会いに来たいって言ってる。いいでしょ」
「ああ」
 お父さん、というのは再婚相手のほうの父のことだ。
 母は再婚して経済的にも精神的にも安定したから、前から秘かに父には感謝していた。 今度もまた感謝することになった。
 再婚してくれていてよかった。俺がこういうことになって母がショックを受けても、父がフォローしてくれるだろう。

「何か、してほしいことはないの」
「別に」
 母はまじまじとアヤセの顔を見た。
「あのね。人に甘えるのは悪いことばかりでもないのよ」
「わかってる」
「親ってのはいいとこだけ見せてほしいわけじゃないの」
 ああ、こういう母の深刻そうな顔を見るのが嫌いだった。人の不安を煽るような顔だと思っていた。 小さい頃からよく似てると言われて、俺もこんな顔をするのかとうんざりしていた。
 もしオシリス症候群の治療法が見つかっていなかったら、誰に何と言われても母に伝える気にはなれなかっただろう。 心配をかけたくないというよりは、こんな顔をされるのが耐え難かった。
 だが、手術が成功して、発作の心配がなくなって、少しずつでも回復に向かっていて、 俺の気持ちにはずいぶん余裕ができたんだろう。今後はよくなっていき安心させられるのだと思えば、 心配されるのも前ほど苦痛じゃない。
 昔は嫌いだった母の深刻そうな顔も、今は懐かしいとさえ思える。
「本当にもう大丈夫なんだ」

 母はしばらくアヤセの顔を見ていたが、やがて諦めたように、そう、と頷いた。
「さっきここにいたシオン君というのは友だち?」
「ああ。時間保護局の」
「感じのいい子ね」
「一緒に住んでくれてるんだ。面倒かけてる」
「あ、そうなの」
 母は、ちょっと驚いた素振りで顔を上げると
「よかったわ」
 ほっとしたように微笑んだ。
「あなたにも、そんな友だちがいて」
 今日初めて母の笑顔を見た。






「ちょっとしかお話してませんけど、アヤセさんのおかあさんは、ドモンさんのおかあさんとも竜也さんのおかあさんとも 違った感じでしたよ。おかあさんって言ってもいろんな人がいるんですね」
 アヤセの母親に会ったシオンは幾分興奮ぎみだった。
「そりゃそうでしょ。そういう職業じゃないんだから」
 ユウリは、我ながら身も蓋もない答えだと思ったが、シオンはなぜか嬉しそうに、ふふふ、と笑った。
「何笑ってるのよ」
「ええっ、なんでもないですよ」
 シオンは想像してみたのだ。
 ユウリさんのおかあさんはどんな人だったんだろう。
 優しくて、でもちょっと怖くて……。
 それじゃまるでユウリさんと同じじゃないか。
 そう気づいてつい笑ってしまった。

 僕のおかあさんはどんな人だったんだろう。
 シオンは時々そう考えるが、いつもまったく想像ができない。
 だけど、僕を生んでくれて、まだ赤ん坊の僕を死なせちゃいけないとカプセルに入れて 逃がしてくれた人なのだ。だから僕は生きなきゃいけなくて、それはきっとおかあさんの意志でもあるに違いない。
 きっとみんなそれぞれ、おかあさんの意志を受け継いで生きている。
 そう思うと不思議だし、なんだかとても凄いことのような気がした。
「やっぱり笑ってるでしょ」
 ユウリに言われて、シオンは、はい、と笑って頷いた。


 

 


 

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