留守番 後編
「わ、いい匂い」
宛名シールを届きに来たのは、以前何度か顔を合わせたことある若い女性社員の田村さんで、入ってくるなり歓声を上げた。
仕事の打ち合わせをするべき場所に食べ物の匂いが満ちているのはよくないと思ってはいるのだが部屋が狭いので仕方ない。
「いつもユウリさんが夕食の支度してるんですか」
「いいえ」
20世紀では多くの家庭で女性が料理を担当しているらしく、トゥモローリサーチで共同生活をしていると知ると ユウリが常に食事を作っているのだと思い込まれたことはこれまでにもあり、20世紀で生活する人間として不自然に思われない ように、最も料理が下手なのがユウリだという事実は公言しないようにしている。
とは言っても、竜也に言わせれば男でも女でもそんなの全然関係ないらしいし、現に竜也は20世紀の男性だが料理上手だし、 シオンは仕事先でユウリの料理下手を話のネタにしたことがあるようだけれどそのために問題は特に生じていない。 もし女性が料理についての知識を持っていることが常識なら、20世紀の情報をインプットされる際にユウリにはもっと知識が 詰め込まれていいはずなので、そうでないということはこの時代にも料理が下手な女性はいるということなのだろう。
「当番制なんです」
ユウリは慎重に答えた。
「へえ、そうなんですか。いいなあ。私は1人ぐらしで自炊してるから時々作るの嫌になっちゃうんですよ」
自炊しているのならある程度の料理の知識ぐらいは持っているだろうから、知っているかもしれない。
もやしのスープを作るとき、もやしのヒゲは取るべきなのか。
思い切って聞いてみようか。
「あの……」
「はい?」
田村さんとはこれまでにも何度か顔を合わせている。気さくで親切な女性という印象である。 質問に対する答えを知ってさえいれば教えてくれる人のように思う。
だけどもやしのヒゲを取ったほうがいいのか取らなくてもいいのかという問題は、強制インプットの情報からは漏れているものの もしかしたら20世紀人にとっては誰でも知っているあたりまえのことかもしれず、わざわざ質問するのは不自然かもしれない。 質問することで、ユウリやトゥモローリサーチの存在に疑念を抱かせるきっかけになってしまうことも考えられる。
それに、もやしのヒゲという名称ははたして正しい名称なのだろうか。なんとなくヒゲと呼ぶような気がするのははなぜだろう。 竜也がそう呼んだのを聞いたことがあったかどうか、よく覚えていない。
「あの、あの毎日御飯作るんじゃ大変ですね」
聞く決心がつかなくてどうでもいいことを口にしてしまう。
「凝ったもの作るわけじゃないですから」
田村さんは、ユウリの逡巡に気づいた様子もなく笑顔で答えた。
「それでも、時々実家に電話して母にいろいろ聞いちゃいます。この間なんてカリフラワー買ったのはいいけどどうしていいか わからなくて聞いちゃった」
「カリフラワーですか」
スーパーで見たことがある野菜だが、安くなっているのは見たことがないのでユウリは買ったことがない。
「どうすればいいんですか?」
とにかく、まずはこのダイレクトメール作りを仕上げなければならない。
田村さんが帰った後、ユウリは畳の上に座って今預かったばかりの宛て名シールを1つずつ封筒に貼り始めた。
田村さんにはカリフラワーの調理法を教えてもらったが、もやしについて聞くことはできなかった。
その結果キッチンには未だもやしスープが作りかけのまま放置されている。もやしのことは気にかかるが、 手を動かさずに悩むのは時間の無駄というものである。
宛名シールを貼るのももう数回目なのでずいぶん慣れた。単純作業だが油断しているとシールがきれいに台紙から剥がれなかったり するので、簡単だからといって油断していてはいけない。頭の中では何を考えていたとしても、手はきっちり動かさなければならない。
手を動かしながら、ユウリは思い出そうとしている。
この間竜也がもやし炒めを作ったとき、竜也がヒゲを取り除く作業をしていたという記憶はない。 あの時はずっと竜也のそばにいたのだから、記憶がないということは取り除かなかったのだろうか。
しかしこれまで食べたもやし料理にヒゲが付いていたという記憶もない。もやしは何度も食べたことが気にならなかったということは、 付いていなかったのかもしれない。さっき見たところ、ヒゲはかなり長く太く、食べるのに邪魔になるようにも思う。 取り除いておけば間違いはないような気もする。
だがもしかしたらもやしはあのヒゲの部分に栄養が多いのかもしれず、そうだとしたら取り除かないほうがよい。 調理方法によって残る栄養に差があることも考えられる。煮るとどうなるのだろうか。
考えれば考えるほどわからなくなる。
やはり、思い切って田村さんに聞くべきだった。聞くのは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥と言うではないか。 常識を知らない人だと思われても、未来から来たとは思わないだろう。 もやしのない国にずっと住んでいたとでも言えばよかったのだ。判断を誤った。
ユウリの周りには宛名シールを貼った封筒がいつの間にかどんどん増えていた。手の動く速度がどんどん速くなっている。
宛名シールも無事貼り終わり、ダイレクトメール作りの仕事はユウリが予定していた時間よりだいぶ早く終了した。 初めてこの仕事を請け負った時に比べるとずいぶん要領がよくなった。
「さて」
あとはやるべきことは夕食の支度だけだ。
タックに聞いてみよう。
タックも知らなければインターネットで調べてみよう。
「…タッ」
声をかけようとした時に、部屋に電話の音が響いた。
ユウリは慌てて立ち上がった。ずっと畳の上に座っていたので足が痺れていてもつれそうになる。
竜也からだったら聞くことができる。
「はい、トゥモローリサーチです」
「もしもし、浅見です」
浅見と言っても竜也ではない。この声は竜也の母の奈美江だ。
よく考えれば竜也はまだ仕事中のはずだし、用があるならクロノチェンジャーを使うだろう。竜也からの電話であるわけがない。
「そういうことでよろしくお願いしますね」
「はい。確かに承りました。ありがとうございます」
来週、浅見家の納戸の整理をしてほしいという仕事の依頼だった。
奈美江はちょっとした仕事を時々回してくれる。友人にもトゥモローリサーチをそれとなく紹介してくれているらしい。
竜也は少し迷惑がっているようでもあるけれど、トゥモローリサーチとしては助かっている。
「あの、すみません。1つ教えていただきたいことがあるんですけど」
「はい。なにかしら?」
「すみません、あの実は私きょう食事当番で、以前竜也さんが作ったことがあると話してくれたもやしのスープを作ろうと しているんですが、こういう場合もやしのヒゲを取るべきかどうかご存知ないでしょうか」
「もやしのスープ?」
唐突すぎただろうか。
さっき田村さんが、わからないことはおかあさんに電話で聞くと言っていた。20世紀でおかあさんというと 竜也のおかあさんしか思い浮かばず、ちょうど電話があったのでつい聞いてしまったけれど、 よく考えれば田村さんは田村さんのおかあさんに聞いたわけで、おかあさんなら誰でもいいわけじゃない。
「それ、前に竜也が作ってくれたことがあるわ」
ユウリの心配をよそに、奈美江は朗らかな声で答えた。
「お昼にチャーハンと一緒に作ってくれた。確かお友達のお家で食べと言ってたの。おいしかったわ。竜也、お料理上手でしょ」
「はい。とても」
「いろんなものを作ってくれたわ。懐かしいわ。また竜也の手料理食べたいわ」
確かに竜也の作るものはみなおいしい。
「もやしはヒゲを取ってなかったと思いますよ」
あ、そうなのか。
「ヒゲが付いていても食べていて全然気にならなかったわ」
ずっと悩んでいた回答がすぐに得られた。取らなくていいんだ。
「あ、ありがとうございます。すみません。変なこと聞いて。私は料理得意じゃなくて。迷っちゃって」
「わかるわ。作ってる途中で気になることがあると困っちゃうのよね。大丈夫。ヒゲは取らなくてもおいしいスープができますよ。 頑張ってくださいね」
電話を置いたら力が抜けた。
竜也のおかあさんは竜也に似ている。あの人ならどんな馬鹿な質問をしても呆れずに、 いや本当は呆れていたのだとしてもそれを態度に出さずに答えてくれそうな気がする。
だからつい甘えてしまった。
恥ずかしい。
ふと死んだおかあさんのことを思い出す。もし今も生きていたら、こんなふうな唐突な質問にも答えてくれる人だったのかも しれない。
「おかえりなさい」
竜也とドモンが、途中でシオンを拾ってトゥモローリサーチに帰り着いたとき、ユウリは畳の上で、 できあがったダイレクトメールを箱に詰めていた。
「ユウリさん、カレー作ったんですね。いい匂いです!」
「どれどれ」
シオンとドモンが早速キッチンに見に行く。
「もしかしてダイレクトメール作り全部終わったの?」
竜也はユウリの前に座り、一緒に封筒を箱に詰めながら聞く。
「終わったわ」
「1人だったのに、さすがユウリは仕事が早いね。大変だったでしょ。おつかれさま」
「竜也こそ」
ユウリは竜也の顔も見ずに、作業しながら答える。
ダイレクトメール作りはユウリなら目処が付くところまでやってくれるだろうし、 もし間に合わなければ帰ってから自分たちも一緒に作業すればいいと思っていたので心配はしていなかったが、 そんなことより急にユウリに食事当番を任せる破目になったことが、竜也にはずっと気になっていた。
仕事が終わるなりで路上でユウリに連絡して、何か買って帰るものがあるかどうか尋ねたのだけれど、 それは要するに食べるものを用意できたのか、用意できてなかったら何か買って行こうか、という質問でもあったのだが、 ユウリは特に買ってきてもらいたいものはないと答えたのだった。
「すごいですよ。竜也さん。カレーの中身はナスと挽肉で、そのほかにスープもあるんですよ。スープの中にはもやしが入ってます」
シオンがキッチンから走って出て来て竜也に報告する。
「え、ほんとに! ユウリ、もやしのスープ作ってくれたんだ?」
「まあね」
ユウリは相変わらず竜也のほうを見ずに答えた。
さっきからユウリが素っ気無い様子だったのは、照れているのだということにやっと気がつく。
思えば今朝ユウリは、きょうの夕飯を用意するとはっきり自分から言ったのである。これまでにユウリが自分でやると言いながら、 やらなかったことがあっただろうか。やると言った以上はやるのだ。
それなのに、大丈夫かなんて心配して悪かった。
ユウリを信じてるつもりだったのに、実は疑ってたのかもしれない。
「ごめんね、ユウリ」
小さく口にすると、ユウリが顔を上げた。
「なに?」
「ううん。なんでもない」
竜也は慌てて首を横に振る。
「アヤセさんはきょうも遅くなるから先に食べてていいって、きのう言ってましたから、もう食事にしませんか。 ドモンさんが今、温めなおしてます。」
「ええっ、こういう時はドモン素早いなあ。じゃあダイレクトメール作りもちょうど終わったみたいだし、夕飯にしようか」
竜也が立ち上がると、ユウリも頷いた。
「そうね」
「ユウリ、お料理すっかり上手になったよね」
「すごくおいしいです〜」
「今朝は、どうなることか心配したけどな」
「ちょっとドモン、スープ何杯お代わりする気なんだよ。そんなに飲んだらアヤセのぶんがなくなっちゃうよ」
「どうせあいつ帰り遅いし。そんなに食わないし」
「だめだよ。せっかくユウリが作ったスープ飲んでもらわなきゃ」
「だめですよ、ドモンさん。さっきアヤセさんから連絡入って、もうすぐ帰るって話したじゃないですか。 夕飯楽しみに帰って来てください、って伝えておきました」
「なんでそういうよけいなことを伝えるんだよ」
「竜也、お母様からいただいた来週のお仕事、竜也が行ってね」
「え? 俺が行くの」
「嫌なの?」
「嫌って言うか」
「ちょくちょくお仕事回していただいているんだから、たまには仕事したついでに親孝行でもしてきなさいよ」
「あ、僕も一緒に行きたいです。竜也さんののお家に行くとおいしいケーキ出してもらえたりするんですよねえ」
「じゃあ、シオンが行く?」
「だめよ。シオンは機械のメンテの仕事があるでしょ」
「あ、そうでした。あそこの会社もたいがい頂き物のお菓子があって3時にはごちそうしてもらえるんですよ。うふふふ」
「え、そうなのか。シオン一度もそんなの持って帰ったことないじゃんかよ」
「だって1つか2つしかいただきませんから」
「2つなら1個持って帰ってきたっていいだろ」
「じゃあ、浅見の家にはドモンが行く?」
「あ、いいね。俺行こうかな」
「だめ。そんな食べ物目当てに行ってどうするのよ。竜也が行きなさい」
「この間のドモンさんの誕生日のケーキもおいしかったですね〜」
「そうだな。うまかったな〜」
「ユウリさんはケーキみたいなきれいなもの作るより、こういうふだん食べるもの作るほうが得意なんですね」
「シオン、それ、どういうこと」
「あれ、アヤセおかえり」
「いつの間に帰ってたんだよ」
「おまえら、ほんと騒々しいな」
「ユウリのスープとカレー食べてよ」
立ち上がろうとする竜也をユウリは制する。
「きょうは私がやるわ」
「なんか大サービスって感じじゃん」
ドモンがおもしろそうに言うのを無視してユウリはキッチンに入った。
カレーとスープの鍋に火をつけて、ふっとため息をつく。
食べられるものが作れてよかった。 みんながおいしいと言ってくれるのはお世辞でもあるのだろうけれど、それでも嬉しい。私はいい人たちに囲まれている。
鍋のカレーをかき混ぜながら、どんどん穏やかな気持ちになっていくのがなんだか不思議だ。