9.留守番 前編
アヤセが部屋に入ると、ユウリが1人畳に座ってチラシを折っていた。
ユウリに「おはよう」と声をかけられたので「おはよう」と返し、ロボターの「アヤセ、おそいたーいむ」の言葉は無視して インスタントコーヒーを入れ、ユウリが物凄い速度でチラシを折ってるのをぼんやり見ながらコーヒーをすする。
「きのうは遅くまで大変だったわね」
きのうは運転代行の仕事で遅くなり、帰った時間にはシオンと竜也以外は寝室に引き上げていたから、ユウリとは顔を合わせていない。
「竜也たちはどうしたんだ」
竜也もドモンもきょうは予定がなく、ユウリと共にここでチラシを折っているはずだった。 その竜也とドモンの姿がなく、室内は静かである。
「今朝、急に荷物運びと部屋の模様替えの依頼が入ったので2人には行ってもらったわ」
きょうはもともとシオンには1日出張修理の予定が入っているし、アヤセにもこの後運転代行の予約が2本も入っている。
ということは、ユウリが1人でチラシ折りをしなければならないということだ。
ユウリが折っているチラシはダイレクトメールとして発送するためのものである。 チラシやら送付状やらを封筒に入る大きさに折って封筒に入れて、宛名シールを貼って、封筒に糊を付けて閉じるまでが仕事だ。チラシの折り方だとか封筒への入れ方だとか細かく決まっているので最初は戸惑ったが、慣れてしまえば難しい仕事ではない。 ただ、たいがい納期が急だ。急いでいる時にしか依頼されない仕事なのだ。
「それ、1人でやるんじゃ大変だな」
「明日までだからロンダーズさえ出てこなければ、なんとか間に合うと思うわ。どうしても無理だったら今晩みんなにも帰ってから やってもらうから」
竜也とドモン2人に行かせたということは、ユウリはきょう自分1人で作業すれば間に合うと判断したのだろう。 残ったのがドモンだったら絶対に間に合わないだろうが、ユウリがこの速度でやるのなら大丈夫だろう。 これなら徹夜させられることはなさそうだ。
「アヤセ」
ユウリがチラシを折りながら、目を上げた。
「聞きたいことがあるの」
真剣な目をしている。
「この間、ナスのカレー作ったとき、ナスはいくつ入れた?」
「ユウリの夕飯は食えるもんが出てくるのかねえ」
ドモンが助手席で呟くのが気に障る。
「そんなこと言うなよ。大丈夫だよ。だいたい朝から夕飯の話なんかするなよ」
「竜也だって気になってるくせに」
そりゃ気になっている。凄く気になっているが口に出したくはない。ユウリのいないところでユウリの料理について話すのは、 なんだか嫌だった。
ほんとはきょうは竜也が買物当番であり夕食当番でもあったのだ。 何を作るかはスーパーに行ってから決めればいいと思っていたので全然考えていなかった。 まったく白紙の状態でユウリにバトンタッチすることになってしまった。
「きょうの夕食は私が用意するわ」
今朝ユウリが朝食のパンを噛みながら、そう言い出したのは当然だ。
つい先ほどの電話できょうは急に荷物運びと部屋の模様替えの仕事が入り、うまい具合に竜也とドモンの体があいていたので 喜んで引き受けたのだが、どうやら仕事は1日がかりになりそうなのである。
こうなると竜也が買物当番と食事当番までこなすのは無理だ。シオンもアヤセもきょうは1日仕事が入っているから、 夕食の準備をするのはユウリしかいない。
しかし、ユウリはまだ1人で食事当番を担当したことはなく、1人で取り組んだ料理といえば覚えたてのパンケーキだけだ。
「僕、のり弁でもいいですよ! おいしかったからまた食べたいです!」
以前ユウリしか時間がなかったとき、ちょうどよく近所の弁当屋でのり弁当の値下げ期間だったので、 ユウリが5つ買ってきたことがある。
「そうだね。きょうはユウリもダイレクトメール作らなきゃならないしさ、あまり時間がないからお弁当買うのもいいね」
「今は値下げしてないからお弁当は買わないわ」
せっかくの提案はユウリ自ら却下した。
「じゃあ何作る気だよ」
「作るか買うか、それはスーパーの折り込みで何が安いか見て決めるわ。竜也の言うとおり、きょうはあまり時間がないし」
さっさと食事を終えたユウリは自分の食器を持って立ち上がり、微笑んだ。
「パンケーキにはしないから安心して」
竜也とドモンとシオンは、ユウリを見上げて、ははは、と乾いた笑いを返した。
きょうの食事当番が竜也だったことをアヤセは思い出した。竜也の代わりにユウリが夕飯を作ることになったのだろうか。
「ナスと挽肉のほかには何か入れた?」
「タマネギを小さく刻んで入れたな。」
アヤセだって、ナスと挽肉のカレーの正しい作り方なんて知らない。あの日は運転代行の客が携帯電話で、 昼御飯にそれを食べたと言っているのを聞いたので、試しに作ってみたのだ。
「入れたのはそれだけ?」
「ああ」
さすがにユウリは賢明だと思う。このメニューならユウリでも失敗しないだろうし、時間もかからない。いい選択だ。
「ナスとタマネギは初めによく炒めたほうがうまい。ナスも挽肉もすぐに煮えるから、いつものカレーみたいに長い時間煮込まなくて いい」
「わかった」
チラシを折る手を休めずにユウリが頷く。
「あの、アヤセ」
今度はなんだ。
「教えてもらっておいて悪いんだけど。あまり辛いカレーにはならないと思うわ。広告見たら、きょう安くなってるカレールーは 辛口じゃないみたいなの」
すまなそうに言うので可笑しくなる。
「いいよ。別に辛くなくても。甘いのが嫌いなわけじゃない」
辛くならないことは最初からわかっている。
ユウリが作るのに、辛いものが苦手な竜也が食えないような味にしても仕方ないだろう。
アヤセが出かけた後、ユウリはスーパーに行き買物をすませ、帰って来てまたチラシ折りに励んだ。
こんなふうにみんなに仕事が入っている日は珍しい。
自分が食事を作るのは効率が悪いとわかっているのでふだん積極的に食事当番を担当しようとは思わないけれど、 きょうのような日は事務所に残っている自分が食事を用意するのが最も効率がよいことになる。
多少なりとも竜也に料理を教わっていてよかった。
こんな日もあるかもしれないと思っていたので、1人で作れるものは何かということを時々考えていた。 食材の値段は日によって違うから何を作るべきかは厳密にはその日の状況に応じて決めなければならないが、 いつでも値段が安い食材というものもある。
挽肉というのは常に他の肉に比べて安いので、前にアヤセが作ったナスと挽肉のカレーは目をつけていた献立の1つだ。 今朝の折込をチェックしてきょうはナスが安いことがわかったのできょうの献立に決めた。 カレーというのは便利なメニューで、味付けの心配がいらない。カレールーを入れるだけだ。それもありがたい。
昼食を納豆とタクワンで簡単にすませ、しばらくチラシに同封する送付文書を折る作業をした後、 早めに夕食の準備にとりかかることにする。
カレーのいいところは前もって作っておけるということだ。作っておいてしまえばあとは心置きなくダイレクトメール作りに 専念できるはずだ。
「タック、悪いけどしばらく電話番、お願い」
「わかった。ユウリ。電話のことは気にせず取り組んでくれ」
「ユウリ、お料理がんばるたーいむ」
タックとロボターの声援を背に、キッチンへ入る。
まな板と包丁を取り出して深呼吸する。
作ってみればナスと挽肉のカレーは簡単にできて、キッチンから戻った時、タックに「もう終わったのか」と驚かれた。
今回のカレーは、皮を剥かなければならないものがタマネギしかなかったし、アヤセの言ったとおり、煮込む時間は短くした。 カレーは以前何度か竜也やドモンと一緒に作ったことがあるので材料は違っても手順はもう覚えている。 パンケーキよりずっと簡単だ。パンケーキはきれいな形にするのも難しいし、タイミングも難しい。 焼いたり揚げたりする料理法に比べて、煮込む料理というのはじっくり考えながら作ることができるのでやりやすいような気がする。
料理が無事終わったので、安心して今度は送付文書を折る。
送付文書をすべて折り終わったら、さっき折ったチラシと一緒に封筒に詰めていく。
このあと糊で封をして、宛名シールを封筒の1つずつに貼っていかなければならないのだが、宛名シールはまだ先方から 届いていなくて、きょうの夕方ここに持ってきてもらうことになっている。
このペースで行けば余裕を持って仕事が終わりそうだ。
「これなら夕食にもう一品作れるかしら」
思わず声に出してしまい恥ずかしくなって周りを見るが、タックもロボターも聞いていなかったらしく何も突っ込んでこないので ほっとした。
ふだんカレーにはいろんな野菜を入れているが、きょうはナスとタマネギしか入っていない。 栄養素というのは一日にあれもこれも取らなくても、今日足りなければ次の日に取ればいいのできょう食べる食材の種類が少なくても 別にいいのだけれど、これだけではちょっと淋しいような気もする。
以前アヤセが同じメニューで作った時には、サラダを一緒に出していたはずだ。
実は、もし時間があったらもう一品作ろうと思って、さっきスーパーである食材を買ってきている。 いつも値段が安いのでずっと気になっている野菜だ。
「もやしはあんまり長い時間かけちゃうと、シャキシャキした歯ごたえがなくなっちゃうんだ」
もやしを手際よく油で炒めて、塩と胡椒をササっと振りかけ、大きなお皿にどさっと開けたあと
「ほら、食べてみて」
竜也が菜箸でもやしを少し摘んで差し出すので、ユウリは自然に口を開けていた。
「おいしい」
確かにシャキシャキしてる。
「でしょ。もやしは安いしおいしいし便利だよ。こうやってただ炒めてもいいし、茹でてサラダにいれtもいいしさ、 もやしのスープもおいしいよ」
「もやしのスープ?」
「そう。にんじんとかジャガイモとか適当な野菜を細く切って、一緒にスープストックで煮て、最後に塩コショウするだけ。 ベーコン入れてもいいし、卵でかき玉にしてもいい。コツはね、もやしを水から煮ることなんだ。 そうするとシャキシャキした感じに仕上がるんだ」
「へえ、おいしそう」
「おいしいよ。凄く簡単だし。今度作ろうよ」
竜也が言うとどんなものでもおいしそうに聞こえる。
目の前で作ってくれたもやし炒めは、タイミングよく手早く作る必要がありそうなのでうまく作るのは難しそうだとユウリは思う。 でもスープなら作れるかもしれない。凄く簡単だって言うし。
「もやしのスープは、直人に作り方教えてもらったんだ」
「そうなの?」
「昔直人の家に遊びに行ったら直人が作ってたから食べさせてもらっちゃった。水から煮るとシャキシャキ感が残るっていうのも 直人が教えてくれたんだよね」
滝沢直人の家に行ったり、食事をご馳走になったりするような良好な関係が昔はあったということなのか。 昔は滝沢もあんな屈折した態度は取っていなかったのかもしれない。
「食べてみたいわ」
ユウリが笑顔でそう言うと、竜也は嬉しそうに、うん、と頷いた。
あの日、竜也に聞いたもやしのスープは、結局まだ食べたことがない。 食べたことも見たこともないものを1人で作ることができるだろうか。
そう思いつつ、ユウリは既にキッチンでジャガイモの皮を剥き始めている。まだおぼつかない手つきだけど、 それでも以前よりはずっと早くきれいに剥けるようになった。
とりあえずジャガイモとにんじんの皮を剥いてもやしと同じぐらいの大きさに細く切る。ジャガイモは水に晒す。ベーコンも細く切る。
そして主役のもやしを取り出す。
「あっ」
もやしを前にして初めて、わからない点があることに気づいた。
もやしに付いている、このヒゲのような細いものは取るべきなんだろうか。それともこのまま調理していいんだろうか。
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(樹里より)
ユウリの話が続いてしまいました。
そして終われませんでした(汗)。後編に続きます。
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