さまよい続ける(1)

 

走るのは楽しいことだったんだ。
ずっと忘れていたこんな感覚を最近ようやく思い出す。今だって走り始めはさほど楽しくはないけれど、 ある時間を過ぎると何故か身体が軽くなって、どこまででも走れるような気がする。
夏の間は室内で走っていたが、朝や夜はすっかり秋めいてきたのでこの頃は早朝もしくは夜になってから屋外で走るようにしている。 やはり外で風を感じながら走るほうが気持ちがいい。走ることを楽しんでいる自分に興奮しているんだろう。 長い間走ることはただ辛いことでしかなかったから。それでもやみくもに走り続けていたから。
こうなってくるとやめるきっかけが掴めなくて、いくらでも走ってしまいそうな自分に内心苦笑しつつ、 アヤセはやっと家へ帰るために歩調を緩めた。
オシリスの治療法が見つかる前は、どんなに体調が悪い日でも家にいる限りは殆ど毎日走っていた。あんなのは今思えばやりすぎだった。 だけどあのころは他にどうしていいかわからなくて、まだ走れると思うことでようやく自分を支えていた。 我慢強いと言われたりしたが本当はそうじゃない。もう我慢できないと思うこと、もう走れないと思うことが死ぬことに繋がっていきそうで怖かったんだ。 確実に死ぬ日に近づいているという事実から目を逸らしていただけだった。
今は楽しんで走っている。
3003年9月。
この時期に自分が死んでいるだろうと予想していたわけではない。だが自分が生きているとも思っていなかった。 こんな日が来るとは思わなかった。


アヤセが家のドアを開けると、中からシオンが走り出てきた。
「おかえりなさい!今朝、僕早く行かなきゃいけなかったんです。忘れてました」
「忙しいな」
シオンはいつも忙しい。いくら一年に一度しか睡眠を取らなくていいといったって働きすぎじゃないかとアヤセは思うが、 シオンは気にする様子もない。ドアに片手をかけながら立ち止まってアヤセの顔を正面から見た。
一緒に住み始めたころはアヤセより背が低いぐらいだったのに、今ではシオンのほうが若干大きい。 ちょっと見下ろされているような気がする。
「きょうからまたですね。がんばってきてください」
アヤセが、ああ、と頷くのを確かめると、
「じゃあ、お先にいってきます」
そう言って外へ出るなり駆け出した。
シオンとの共同生活も長くなった。朝に晩にアヤセがトレーニングに行くのをシオンはいつも黙って見送って文句も言わずに迎えた。 よく何も言わずにやりたいようにやらせてくれたと思う。 今にも死にそうな様子で走ろうとするのを傍で見ていたシオンのほうが、自分より余程辛かっただろう。逆の立場だったら、いつもいつもあんなふうに笑って送り出すことはきっとできない。
感謝の気持ちをとりたてて口にしたことはない。それはとても言葉で表現できるようなものではないから。
だが、シオンがいたから自分はいま生きているといっても大袈裟ではないと思う。 
1年前に手術を受けてから、ほぼ1か月おきに病院に入って投薬治療を受けている。きょうからまた入院する。 最初の頃は入院するたびにもうここには戻れないかもしれないと思っていたが、最近はそんな気もしなくなっていた。 必ずまたここに戻ってくる。
シオンが出したままにして行ったコーヒーカップを流しに運んでから、アヤセはシャワーを浴びるために風呂場へ入った。





現場はごく普通のビルの一室だったが、ドアを開けると物凄い悪臭がしており、ユウリは一瞬だけ足が竦んだ。
死体の側に屈みこんでいた先輩刑事のセトがユウリを見上げたが、その顔はどことなく嬉しそうにも見えた。
「ユウリか、見ろよ」
死体は血まみれで内臓があちこちに飛び散っている。血が鮮やかな青い色をしていたから、殺されたのが地球人ではないことがわかった。
「銃で撃たれた上に散々刺されてるな。 よっぽど恨まれてたんだろうな」
だが顔には傷がなかった。地球人によく似たその顔は青ざめていて、身体の傷から飛び散った青い血で多少汚れていたが、 眠っているように穏やかに見える。
「しかし、本当に真っ青な血だな。宇宙人はいろいろいるからなあ」
「異星人です」
ユウリはセトの顔を見ずに訂正した。
「あ、異星人ね」
宇宙人という言葉はこの時代においては差別語である。口を利くのも嫌になるような悪臭だったがこんな時でもユウリは この差別語を訂正せずにはいられない。セトはそんなユウリの反応を予測してわざわざこの言葉を使ったのかもしれない。
ドアを開ける音がして若い刑事が入って来た。
「なんだ、これ……」
その新人刑事は絶句し、いきなりうずくまって、その場で嘔吐した。
「おーい、現場で吐くなよ」
その声を聞きながら、ユウリは急いで部屋から外へ出た。廊下の向こうに階段があったはずだ。 階段の前へたどり着いたとき耐え切れなくなってしゃがみ込む。仕方なくそこで嘔吐した。
悔しい。
あの新人があそこで吐いたりしなければ大丈夫だったのに。つられてしまった。現場を汚さなかっただけまだましというものか。
ハンカチで口を拭って大きく息を吸う。自分がちょっとでも隙を見せると妙に喜ぶ輩がいる。 部屋に戻った時セトがまた嬉しそうな顔をするだろうと思うと腹が立つ。
吐くぐらいのほうがまともだ、と本当は思っている。 あんな凄惨な現場で何事もなかったかのように冷静に行動できる人間なんて、きっとどこかおかしい。 だが捜査員としては、あんな場所でも冷静でいなければいけないことはわかっている。


「時間保護局の局員だ」
自分のデスクに戻ったユウリは、セトに一人の若い男の顔を見せられた。さっきの死体の男がまだ生きていた頃の顔である。
「3000年に入局だから、おまえと同期だ。覚えているか」
一昨年、ユウリはマフィア担当捜査官だったが、潜入捜査のために1年間だけ時間保護局に入局していた。
「覚えていません」
「1年間もいたのにか?よく見ろよ」
言われなくてもよく見ている。しかしこの男は記憶にない。
「時間移動していたので、ほとんど局員との接触はなかったんです。だから全く覚えていません」
20世紀に一緒に行った連中以外の同期の局員とはごくわずかの時間しか会っていない。 それでもレンジャー隊員であれば記憶に残っているだろう。ということは、この男はおそらくレンジャー隊員ではないのだ。
異星人とはいっても地球人と見分けがつかない容姿である。 青ざめた顔は神経質そうにも見えるが、実際どんな感じなのか、この動かない映像からはよくわからない。
「身長175cm、体重60kg。痩せてるなあ」
セトがプロフィールを読んでいる。
さっき見た無残な姿を思い出す。銃で撃たれた傷が致命傷だった。それなのに死んだ後に刃物でさんざん刺されているのだ。 あんなに執拗な殺され方をするなんてよっぽどのことだ。何か恨みを買っていたんだろうか。
「仕事は開発担当か。所属は技術研究所だ」
ユウリは思わずセトの顔を見る。
それはシオンの所属先と同じだ。

 

 

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